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その傷のブルースを見せてくれ。
撮影被写体募集について、ながらく更新をしてきていませんでした。
もう募集はやめようと思っていたけれど、やっぱり、と思ったので、
あらためて、今の思いのうえに、更新します。

長いので、5分くらい、時間をください。
べつにぜんぶをぜんぶ読まなくても、ちょっと下にある
「写真の被写体になってくれる方を募集しています」を読むだけでもおっけいです。
 
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2018年の7月か8月ごろに、文字の本を二冊出します。
この本を書きあげるまで、実に5年かかりました。

そのあいだ、何十件か撮影被写体の希望を頂いていましたが、ぼく自身に迷いがあり、
なにを撮りたいのか分からずにいたため、全部をお受けすることはできませんでした。
切実なものだとはわかりつつ、何を言いたいのかが今ひとつわからない長い言葉にたじろいで、
返信しないままにしてしまったものもあります。ごめんなさい。
すべてはぼくのあいまいさのせいです。

本を書くことで自分のなかのあれやこれやをことばにすることができたことで、
そのあいまいさがすこし晴れました。

ぼくがひっかかりを感じて返信できないままにしてしまった依頼には、
「障害がある自分を撮ってほしい、わたしはこういうことに苦しんで悩んで……(長文)」
「あの芸能人の写真のように、きれいに撮ってほしい」
「あなたなら私の本当の姿を撮ってくれるような気がする」というものがあります。
ここ最近は、ほとんどこれらしかありません。
それらのメールはどれも饒舌でした。ぼくが撮らなくてもだいじょうぶだろうと思ってしまうくらい、
ことばでなんでも説明できるという確信が漂うメールでした。(ぼくの、一方的な、見方ですが)

ぼくにカウンセリングのようなことを期待して、どっと、もたれかかってくるような依頼にも困りました。
ことばを見ただけで、ちょっと会っただけで「本当の自分」なんて、撮れるはずがないんだけれども。
もしも「本当の自分」が撮れたと思ってくれたとしたら、それは、ぼくの写真に対してあらかじめ
持っていたイメージのなかに、自分の姿があることに安心するだけで、ただの確認作業でしかないのです。
あいまいなまま撮っていたときは、よくわからないままに、その願望だけは忠実に読み取っていて、
「その人のなかのぼくの写真のイメージに応えよう」としていたことに、今になって、気づきます。
疲れました。

逆に、一も二もなく撮影が始まる、そうして、写真もこれまでにない新しいものが写る方からの
メールにあることばは、短くてあいまいで、でも直感的な力強い切実さに支えられたものでした。
短いことばなのに、自分のからだや生きづらさについての端的な事実と、
そのからだを見つめ直したい、という切実さと覚悟がありました。

ことばではないことばを求めての写真だ ということが、よくわかるものでした。


そんな方とは、お会いしても、撮影するにあたっても、ごく自然でいながら、
共同作業としての撮影で、写真も、おのずと新しいものになっていました。

 
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ここで今あらためて、
その傷のブルースを見せてくれ
という一文をもとに、撮影被写体の募集をします。

2014年に行った、荒井裕樹さんとの対談で、ふと浮かんだフレーズなのですが、
いまあらためてやっぱりこれだなあと思いました。

ブルースの意味は「哀調を帯びた歌曲」だそうです。
ぼくはブルースを聞いたことがありませんが、ブルースというものがどういうことかを
教わったのは花村萬月さんの小説です。花村萬月さん大好きだなあ。

ひとりの人間として誰もが抱えるままならない野蛮性やエゴイズムに苦しみ悩みつつ、
その中につつまれている、それでも手放すことのできない、いのちの底で通底するやさしいもの。
それを自分の外へと出す行為を、ブルースだと思っています。

たこ八郎の「めいわくかけて、ありがとう」が、ぼくの思うもっとも美しいブルースなフレーズです。

傷といっても、暴力的なものだけではありません。
忘れられないこと、忘れたくないこと、原風景、といった、
ある種のエクスタシーや感動とともに、こころにきざまれたものも「傷」だと思っています。

ぼくがこれまで撮ってきてなによりもうつくしいと思う人は、自分の弱さや悲しみをことばでごまかさず、
すでにその全身で差しだしている存在でした。
そのとき、その全身は、路傍の石のように、路上を歩く犬のように、
森の一部として盛える樹のように、ただそこにあるだけでブルースでした。


「その傷のブルースを見せてくれ」
もとい、その傷がブルースに昇華する瞬間を撮らせてください。
 
○ ● ○
 
美醜とか、種族が違うとか、障害があるとかないとか、男だとか女だとか、
老いているとか若さとか、そういうことで考慮したことは、ぼくは少なくともこれまでにありません。
メール全体から漂う、ことばの饒舌さに、参っていたのでした。
とはいえ、ぼくがあいまいなまま募集していたから長文にもなるよなとも思ったので、反省です。

そして、金銭的なことで揉めたこともあります。
へとへとになります。これもまたぼくのあいまいさのせいです。これも反省です。

ながーくなりましたが、そんな反省をもとに、これからは下記の条件を見ていただいたうえで、もしも
「この傷を、ブルースとして撮ってほしい」と思っていただけたらメールをください。

 
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写真の被写体になってくれる方を募集しています。

▼ 自薦でも他薦でもおっけいです。
障害の有無も、おとこやおんなLGBTといった性別も、いのちが迫っていても、
産まれたばかりのこどもでもその対極といっていい高齢者でも、なんも問いません。
動物や、植物、鉱石といった他種族でも、おっけいです。
あなたにとっての、そのものにとっての、わすれられない傷を教えてください。

どんなにつたないことばでも、だいじょうぶです。
つたないのに、ことばにならないのに、力強く書きたくなることばなら、
なんか……、いいです。すてきです。

▼ 関東内の、その者にとって地元やゆかりのあるところで撮影をしたいと思います。
もしくは、話をしていくなかで、見えてきた場所。

関東以外の地方にお住まいの方は、、、できることなら行きたいのですが、そんなお金はありません。
この点もぼくの反省です。以前、お金もないのに、遠方の人の撮影に行きまくって、おしりに火がついたことから、
撮影全般にすっかり消極的になってしまったときがありました。
(基本、フィルムでの撮影なので、PENTAX67なら1カット100円になってしまう今の時期、また辛い)
無理ない範囲でもいいので交通費や謝礼をいただけるなら、すぐさまに飛んでいくのですが、ううむ。

このあたりは、、、やっぱり、一応、メールをください。
とても切実なものであったら、ぼくにとってただならぬ直感がおちたなら、
どこでも、遠くても、自費でも、それでも参ります。そうでなかったら、ごめんなさい。

▼ 撮影した写真は、齋藤陽道の作品として使用することを了承ください。
 (雑誌、写真集、作品販売、スライドなど)

▼ 撮影のあと、肖像権使用許諾書にサインを書いてもらいます。
20歳にならない方は、撮影のまえに、親権者の同意書にもサインを書いてもらいます。
撮影後の作品掲載のとりやめについては、できません。撮るからには、全力なので、したくありません。
よくお考えのうえ、深い直感のうえ、ご連絡ください。

▼ ヌードも、よくわからないビジョンを再現の演出するでも、おっけいです。
まずは、話をきかせてください。
だれかを傷つけるようなこと以外、だめなことは、ありません。
だめなときがあるとしたら、ぼくの技術不足と、金銭不足と、覚悟不足です。

▼ 謝礼はお出しできません。
が、撮影した写真でこれぞという写真の2L プリントと、フィルムスキャンしたデータをお渡しします。

▼メールには、下記の条項を埋めて、お送りください。
 「mail」ページから送るか、下記のアドレスからおねがいします。
 info▲saitoharumichi.com  (▲を@にしてね)

 ◆ 名前:
 ◆メールアドレス:
 ◆住まい:
 ◆傷について:
 ◆ゆかりある場所:
 (納得できるものだったら、遠方でもゆきます。ゆきましょう)


過剰な挨拶や、ていねいすぎることば、お礼は、いりません。
ぼくも、しません。
鮮烈にふつうに、お会いしましょう。


 
2018.06

 

しょーてんがい

ここからの文章は、まえまえのあいまいさを残してます。
よまなくていいです。



身体から精神、性的マイノリティまで含め、障害をもつ
撮影被写体を募集しています。



下の文章はたぶん2006年ごろに書いたもので、いまの思いとは遠いものになっています。
カチカチの言葉でカチカチに言っているね。 6年かあ、としみじみします。
障害とかマイノリティとか尊厳とか研ぎ澄まされているとか、
そういうことは今はどうでもよくなっています。
というよりも、6年前の自分自身がそうありたいと信じたかっただけでした。
そんな看板を臆面もなくずっとかかげてきたなー、と、ほほほ、自分のごう慢さに笑っちゃう。
でも、無理にでもそれはきっとあると信じて始めないとなにも動けないな、
というキリキリした思いもあって、これまでかかげてきました。
そしてこのごろ「この看板はどうもちがうなあ」と思うようになりました。

いま思うことは、
それぞれのみんながみんな、何かの断片でしかないな、ということです。
言いかえると、みんなたったひとりの当事者だということで、
その当事者だという自覚が強くあるひとと会いたい。

身体、精神に障害があるひと、LGBTのひとはその当事者意識がガチリと立っているひとが多く、
それがとてもかっこよく見えていたからわざわざ打ち立てていたんだな、と思います。


その断片同士がそれでも隣り合ったという、とほうもない日常。
会って撮ることができたという、そのふつうさ。
そのことが実はとてもすごくて劇的なことなんだと思っています。


それを撮りたいのです。

そういうものこそがやっぱりどうしたって、いろいろ忘れて忘れてすっころびそうなとき、
うちふるえるほどにやってくるものだとおもっています。

ぼくはなにも信じていないし、なにも見ていません。
それでもやっぱりあれこれそれを見たい、信じたいと願っています。


だからふつうでいいです。

鮮烈にふつうにお会いしましょう。

 

2012.8.8 




だれでもなんでもアリにしたら、それも主旨が違うので、
なんの当事者かという自分についての言葉をください。
自薦他薦どちらでもいいです。
何かを抱えているペット、どこかの動物なども歓迎です。
ものすごくかっこいいたたずまいの樹とかもいいですねえ。

お金がないので関東付近を優先いたします。
遠方の方は本当に申し訳ないのですが、もしも関東にくる予定がありましたら
それに合わせるなどご一考のうえで連絡をくださるととてもうれしいです。

ぼくもいろいろなところに突発的にいくことがあるので、
関東に行く予定がない、家からでることができないなどの事情で
今すぐの撮影が難しくても一度ご連絡をくださるとうれしいです。
いつかの日、機会を合うその時を待ちたいです。

 

写真家の齋藤 陽道(さいとう はるみち)と申します。
わたしはろうでありながらろうの世界を知らずに
生まれてから十数年間を過ごしてきました。
しかし高校入学したろう学校でろうの存在を知りました。
手話という言葉で生まれて初めて自由に言葉を交わす感覚を知ったその時
わたしは初めて「人を知りたい」と痛烈に感じました。
そしてその想いは今、写真行為へとつながっています。

そこで障害をもつ撮影モデルとしてご協力して頂ける方を募集します。


身体障害から精神障害、性的マイノリティまで含め、
それらの者たちはこの社会による「健常」という定義に
必要な身体や感覚を欠いたり失ったりしていることで
他者には計りえない辛苦を味わっています。

だからこそわたしたちは「それでも生きなければならない」という
燃え立つような生命の本能がより強くあるのです。

それは障害者自身のみならず、周りの者をもまきこみ、かき抱く力があります。

【健常者にはない感覚や視点に満ち、研ぎすまされている存在】

わたしはそこに人間としての尊厳を見いだしています。

その尊厳を撮りたいのです。

 

人種、老若男女、障害の重軽度、撮影経験の有無などの制限はありません。

自薦他薦どちらも大歓迎です。

興味をお持ちくださったら気軽にメールでご連絡ください。

なおメールをくださる際には撮影イメージをつくるために
お名前、お住まいの地域、障害の状態、すきなことなどの
自己PRなどを書いてくださると助かります。

 

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